とゆふものは。

何者でもない、だから需要もない、アラフォー女の想いを綴ります。

私が子どもを持たない理由を深掘りする(考察編)

 子どもの頃、大勢と遊ぶときの私は道化役だった。
 おままごとならみんながやりたがる『お母さん』じゃなくて脇役をやる。『お母さん』はちゃんと自己主張できる、ハキハキした子がやるから、私はお呼びじゃなかった。
 当然あまり楽しくないので、やっぱり一人の方が楽だし好きだなーといつも思っていた。

 小学4年生か5年生のときだったと思う。保護者会か家庭訪問だったか、担任の先生が母に言ったのだ。
 あまりお友達と遊ばない子ですね、と。

 その時初めて、友達がいないとダメなんだ!しかも多ければ多いほどいい!という価値観を知った。(ともだちひゃくにんできるかなー)
 それまで一度もそう思ったことはなかったし、強がりではなくそれを悲しいとか辛いとか感じてなかった私にとってその衝撃たるや。
 でも母はなんだか悲しそうだし、大人の世界ではどうやらそういうものらしい。

 そんなわけで頑張って一番合いそうなグループに入れてもらって休み時間や放課後は一緒に過ごすようになった。
 だけどそれは義務感からの行動だったからどうしても不自然になる。
 どうしたら友達を増やせるんだろう?好かれるんだろう?
 自分の振る舞いに自信がないから人間関係の細かいことを異様に気にする子になってしまった。
 例えば、〇〇ちゃんは他の子と接する時に比べて冷たいから私のことはいまいち好きじゃないのかもとか、同じグループの子は××ちゃんのお誕生日会に呼ばれてるのに私は呼ばれてないとか、そういうこと。
 小学生とはいえ、女の子同士というのはグループや上下関係があってとても面倒なのだよね。
 ますます上手に振る舞えなくなって、小学生の後半から中学時代にかけてあまりいい思い出がない。

 本当は友達の多さは関係ない。
 少なくていいから信頼できる人と心を通わせる訓練をしなさいと当時の自分に言ってあげたい。

ある夫婦のお金の話(ライフプランを考える)

 アラフォーともなると、本当に終わりは来るのか?と思っていた社会人生活の折り返し地点がいつの間にやら見えてくる。
 そんなわけで今まで見て見ぬふりしていたライフプランを考えてみました。

条件

  1. あと何年働くか?
  2. 何歳まで生きるか?
  3. 老後に毎月いくら使うか?

 上記の条件をもとに定年までにいくら貯めれば良いか?(裏を返すといくら消費しても良いか?)を算出してみます。

自分に当てはめてみる

あと何年働くか?

まず私と夫の年齢はともに40歳。
今の会社は60歳定年なので、あと20年働く。
(世の中の流れで定年延びるかもですが、とりあえず現状として)

何歳まで生きるか?

寿命はまあ分かるはずないけど、父方母方ともに祖母が長寿だったこともあり、90歳まで生きると仮定する。
つまり老後は30年間。

老後に毎月いくら使うか?

ここ数年の支出傾向と今よりはミニマルな生活になることを踏まえ、家賃を除いて夫婦で毎月20万とする。

  • 20万×12ヶ月×30年=7,200万

合計7,200万が必要。
ただ男性の方が平均寿命が短いので夫の方が先に亡くなる可能性もあり、実際はもうちょっと少ないかも。

ただし終の住処として郊外に中古マンションを購入したい。
(人口が減って家の資産価値とともに価格も下がるのではという期待。とはいえ東京都心は無理だろーな。でも定年後なら東京である必要もない)

  • 7,200万+1,500万円=8,700万

ここから現時点の貯金額3,000万を引く。
(私たちは晩婚なので、結婚した時点で各々それなりに貯金していた)

  • 8,700万−3,000万=5,700万

これを貯めるべき最低額として、定年までの20年でいくらずつ貯めればよいか?を算出する。

  • 5,700万÷20年=285万
  • 285万÷12ヶ月=24万(切り上げ)

つまり!
夫婦で1ヶ月に24万目安、1年で285万貯めればよくて、残額は使っちゃって問題なし。

本当のところ・・・

 年齢や貯金額その他もろもろフェイク入れてますが、大体こんなふうにしてざっくりとした額を導き出しました。
 あくまでも夫婦ともに定年まで働く前提で、下記のような不確定要素は想定対象外です。

  • プラス要因

    • 退職金
    • 夫婦どちらかもしくは両方の親からの相続
    • 宝くじ当選のような棚ぼた
  • マイナス要因

    • 物価高騰
    • 夫婦どちらかもしくは両方の親に何か起きる
    • 夫婦どちらかもしくは両方が失業したり病気になる
    • 離婚する

 実際に何か起きた時にはライフプランを練り直して方向転換すればよいのかなと。

年金について

 年金って結局いくら貰えるの?と考え始めるともやもやするし、たとえゼロでも生きていける算段をお守りにしておくと心に余裕が生まれるので、ここでは潔く想定に含めていません!
 とはいえさすがにゼロということはないと思っていて、50歳になったら受取見込額を考慮に入れられればよいかなと考えています。

今の心持ち

 こうやって整理すると、今よりも色々クリアになった50歳に再検討がよいかなと思います。それまでに何事もなければ、だけど。
 50歳までは会社員しつつ資産運用で不労所得を増やしたり、副業を始めてみたりして、定年後に会社からの給与以外で所得が得られる土台も作っておく。
 小説を書いて一発当てるとかユーチューバーになるとか?いや、もっと地味でいいんだけど。
 そしてもしセミリタイアを視野に入れられそうだったら?嬉しい反面、寂しいような。なんだか今の毎日の仕事も愛おしく感じられる気がします。

 あと、もう自分で自分の身の回りのことができなくなったら、希望制で有償で構わないので安楽死を導入してほしい・・・日本では人道的にだめなのかな?
 最近そんな映画あった気がしますが。

 と、老後のことを考えると楽観視できることばかりでもないですが、考えすぎて全くお金を使わず今を楽しめないのは本末転倒なので、そこそこ自分の欲は満たしつつ生きていきたいものです。

 以上、プロでもなんでもない、役に立てないアラフォー夫婦のお金の話でした。

大抵の人は何者にもなれないんだから

 人の一生なんてほんの一瞬、人類の歴史からすれば瞬きをする間くらいの短さで、そして残念ながらほとんどの人は市井の人で終わる。

 戦国時代なら武功をあげたり、近代以降なら事業を成功させたり、時代ごとに必要とされる能力は違えど、歴史に名を残す人ってちょっとやそっとの成功者じゃないんだよね。
 徳川家康だって松下幸之助だって当たり前のようにその名を口にするけど、実は天下人で大企業の創始者で、そのレベルでようやく後世の人々が認識する知名度になれる。

 なんだかまとまりのない話になったけど、 たまに何のために生きてるんだっけ・・・?という思考のループに陥っちゃうのですが!
 一般人ができることは個人の小さな楽しみを追求したり、せいぜい世論を形作ることくらいで、何のために生まれたの?と深く考えたり、何者にもなれない自分に悩んだりすることはあまり意味ないかもよっていう結論に至ったことを記録として残しておきます。

 そう、この年になって子どもを残す意味も分かるようになったかな。
 歴史に名を残すのは無理だから子どもには大きなことを成し遂げてほしい、ってわけじゃなくて、自分が死んだ後の世を自分の子どもが体験してまた時代の一部になっていく、ってなんていうかロマンだよね。
 まあ子どもいないので、ただのよもやま話なんだけど。

なぜ私は働くのか(裏)

前に
なぜ私は働くのか - とゆふものは。
という記事を書きました。

もちろん嘘じゃないけど、もう一つ大きな裏の理由があります。
それは母を見てきた結果、生きていく上で経済力を失いたくなかったという理由です。

寿退社からの専業主婦が当たり前の世代だった母は結婚して会社を辞め、生まれ育った都会から父の実家がある遠い土地に移住しました。
そして、

  • 義両親と同居
  • ワンオペ家事育児
  • 田舎の親戚・近所付き合い
  • 最終的に介護

というなかなか壮絶な生活が始まったのです。
いやー今の感覚なら別居もしくは離婚一択ですね、コレ。
私もその選択をすると思います。
でも、今のような情報社会でもなく、社会経験がほぼない母にはその選択肢はありませんでした。

そして言うのです。
でもね、それが女の人生ってものなのよ、と。

って、そんなことあってたまるかーい!
まあセリフだけ聞くと悲壮感溢れてますが、実際は自己陶酔というか悲劇のヒロインの私、という言い方でもありました。
父とは恋愛結婚だったし、他の生き方を知らなければそこまで悲観することでもなかったのかもしれません。
でも姑にいじめられたり、田舎の閉鎖社会に参って泣いたりしたからなあ。
やっぱり今度会ったときはもう少し母に優しくしよう。

しかしこう書いてみると自分が晩婚になった理由がとてもよく分かります。
うん、どうも結婚に幸せなイメージないわ。
当たり前のように家事育児介護をやって、経済的な豊かさもどこに住むかも夫次第、かといって世間的に働くことは許されない、それが結婚というむしろトラウマなんだわ。
そして経済力があれば結婚しなくても生きていける、と本気で思ってしまっていたんだわ。
育った環境って大事です。
東京で核家族に生まれていたらきっともっと早く結婚していたでしょう。

少子化を止めるには女性の社会進出を止めればいい、なんて極論がありますが、まあ正しいのかもしれません。
資本主義の世の中で経済力を奪われたらもう何もできないからね。
中東のとある国じゃあるまいし、仮にも先進国でございます、という顔をした日本が今さらその道は選べないでしょうけども。

働くのはしんどいし結婚を機に専業主婦になる道もなくはなかったけど職を手放すのが怖かった、そして今となっては子どももいないし、将来のことを考えるとそりゃ働いてた方がいい、と最近は思っています。

写真撮ってもらってもいいですか?恐怖症

観光地を歩いたりしてると他人にカメラマンを頼まれることが昔から多かった。

自分は頼まない人だけど、あれって全員が写った写真を残したいからだよね、分かる。
でもお願いだから、私には頼まないでほしい。
って深刻に考えるようなことでもないのにそう思ってしまうのは、写真を撮るのが本当に絶望的にヘタクソだから。

他の人と同じように撮っても私の写真には躍動感ってものが全くない。
人も動物ものぺっとしてる。
風景なら何をメインに撮りたかったのか分からないし、食べ物ならおしなべて美味しそうに見えない。
対象物全てをむりくり一つの画面に収めようとするから平面的になっちゃうのかなー。

自分で撮る分にはそれでもいいんだよ。
フィルムカメラ写ルンです→デジカメと変遷したけど今はスマホでしか撮らないし、
そうなると私の写真フォルダは私しか見ないし、
ただ人生の記録として残してるだけだから。
でも他人の写真はそういうわけにもいかない。

昔、男女6人くらいの学生グループにカメラマンを頼まれたとき、デジカメで撮った写真を見た後に全員一瞬沈黙したあの気まずさは忘れられない。
思い出したように感謝の言葉があったのだけど。
それからも同じようなことがあり、もう完全にトラウマ。

頼まれるときの空気感ってあるんだよね。
カメラを持った人となんとなく目が合い、
あ、近寄ってくる?
いかんいかん、悪いこと言わないから私に頼んじゃダメだよー
後悔するよー
一般人の写真の腕なんてクオリティなんて期待してないかもだけど、私の写真は想像以上なんだって。
むしろ逃げる? 断る?
それしたら変な人に思われる?

「あの、写真撮ってもらってもいいですか?」

はい、撃沈。

スマホが普及したし、
自撮りが主流になったし、
コロナ禍が追い打ちをかけたし、
頼まれる回数減っていたんだけど、また最近頼まれる機会があったので思わず一緒にいた夫に丸投げしてしまった。
ごめんよ夫。
そして明らかに私に頼んだのに夫に譲ったりして不審な人だった?
ごめんよ頼んできたご夫婦。

でもそのためにうまく写真を撮るように練習する気があるか?というと、まあない。

ハイブランドへの興味が失われつつある

初めてハイブランドの物を手にしたのは大学生の頃、ルイヴィトンの財布だった。
親からの誕生日プレゼント。
働いてもいないのにまだ早いと言われたけど、周りの友達はハイブランドの財布を持っている子が多かったのもあって、どうしてもとお願いして買ってもらったのだった。
それまで使っていたビニール製の財布と比べると重厚感があって少し大人になった気がして、財布を出す場面では気分が高まった。

20代後半から30代前半は欲しい物リストを作っていた。
アクセサリー、時計、財布やキーケースなどの小物、バッグ。
社会人になって自分の稼ぎで手に入れた物もいくつかあるけれど、リストを前に絶望的な気持ちになったこともある。
これはいくらお金があっても足りないな、と。

そしてこの数年、コロナ禍のステイホームで自分の物欲を形作っていたものがどんどん削ぎ落とされていった。
なんだか気持ちがさっぱりして、分かっちゃったんだよね。
ああ、ハイブランドの物を買って身に付けて他人に見てもらいたかったんだなと。
そして羨んで欲しかったのだと。
ずっと家で過ごす毎日なら最低限の装飾品以外は必要なかった。
本当にその「物」に価値を見出す人もいると思うけど、少なくとも自分はそうじゃなかった。

そして経験にお金を使いたいと思うようになった。
旅行とか美味しいものを食べるとか未経験の遊びとか。

アクセサリーは婚約指輪と結婚指輪、ノーブランドのピアス。
時計はスマホがあるし、財布はキャッシュレス生活に移行したこともあってカードとわずかばかりの現金が入る、これもノーブランドのミニ財布。
十分事足りる。

そんなわけでだいぶ減った欲しい物リスト。
だけど最近はコロナ禍の規制が緩くなって外出も増え、

それなりの旅館に泊まったり高いお店で食べるならいいバッグじゃないと恥ずかしいかな

とか

もっと年を取ったら大きい石のアクセサリーじゃないと映えないかな

とか

とはいえスイートテンの指輪はほしい

とか思っちゃう自分は若い頃に植え付けられた、ハイブランドこそ正義という呪縛と見栄がまだ解けきってないのかも!

そんな時にはこう考えるのです。
結局、あの世には持っていけないのよ、と。
最低限の物で十分なのよ、と。
子どもがいないから物を残して子どもに譲るルートもないしね。

インターネットの世界で老害になりたくない

老害という言葉は嫌いなのだけど、あえてそう書こう。
世に出てきた頃は若者だけのものだったインターネット、その若者も年を重ねて40代50代になり、その間にデバイスも進化して家で座ってパソコンを起動しなくてもスマホタブレットでどこにいてもアクセスできるようになりました。
そうすると色々な年齢層の人とコミュニケーションを取ることが増えて、なんだか面倒な人に出会う機会も増えませんかね。

個人的に年齢でマウント取るのって一番かっこ悪いと思っていて、それは

  • 若→老
  • 老→若

どちらもそうなんだけど、老→若はやっぱり若い人が羨ましい、という感情あるよね。
自分も年を取って選択肢が少なくなってきたから羨ましい気持ち分かる。
でも
「あーあなたはこの時生まれてないから知らないかー」
「あなたはお若い方?昔はこうだったのよ」
みたいな当たり前のことをドヤドヤするのは辞めたいな。

これまでは現実の世界で親戚や会社の上司からの攻撃だけに対応していればよかったのに、最近の若者はネットの世界でまで色々言われてチョーうざいだろうと思うのです。
(最近はチョー〇〇と言わないと聞いて衝撃を受けたアラフォーです)

若い時にうざいと思ったから年取った暁にはコレは言うのやめようとか思っていたのに、つい言いたくなっちゃうんだよねえ。
最近、あるアプリのコメント欄でマウントコメントを沢山見て、そんな自分への戒めとしました。
年取るっていいこともあるけど、バランスよく年取るのって難しいね。